「日々」と付けたわけ

わたし

今日もこの星のどこかで生きている愛しいみなさま

本日もお越しいただきありがとうございます。

ブログを始めてもうすぐ1年が経とうとしていますが、始める時に「日々」という言葉を使いたくて使ったんです。「日々」って私にとって、とても愛しいものなんですね。

私、何週間も先の予定とか決めるのが苦手で。何ヶ月とか。(だから趣味のキャンプの予定立てるのは大変。。。)そんな先のこと、わからない、その時、それがしたいかどうかわからない(気分が変わってたらどうすんの)て思っちゃうからなんですが、とにかく苦手なんですね。あんまり好きじゃないんです。気持ちが乗らないことをしたくないから、気持ちがわからないのに決められないっていう、頭の硬いところがあって。

それもあるんですが、毎日の日々のことでもう胸いっぱいってところも少しあるんですね。明日のことすら明日にならないとわからない、明日考える、みたいなところが。(もちろん、全部じゃないですよ!自分だけのための予定は、ってことね)

私、小さい頃(物心が付いてから、実家を出るまで)家庭がリラックスできなかったんです。渦中にいる時は必死だったし子どもだったので、ただ辛かっただけだったんですが(そして、それを表現もできず)今思えば、心配事で埋め尽くされていたんです。家の外にいる時、友達といる時、学校は楽しかったんですが、家に帰ることがそんなに嬉しいことじゃなかった。家に帰るってことは、何か頑張る時間が始まるってこと、みたいな感じで、甘えるとか、ダラける、とか、あんまりそんなことできる場所じゃなかったんですね。常に緊張していた。(こういうことは、自分が子育てして、子どもを見てて、子どもって普通はこうだよな、ってわかった部分も大いにある)とにかく素の自分は「死んでいた」と思う。毎日、今日は大丈夫か、明日は大丈夫か、って毎日が心配でやっと過ぎていっていた感じで、休まる時がなかったんです。誰も悪くないんですけどね。

とにかく他の普通の家庭がすごく羨ましくて、どんなに喧嘩したり散らかってたりしてても、うちよりいいって思っていたし、幸せに見えたんですね。帰りたくなくても私の帰る家はそこしかなくて、そこは私がリラックスできる家じゃなくて、でも子どもの私はどうすることもできなくて、とてもチャレンジングな環境にあったんです。(「チャレンジング」って言葉、こないだインド占星術で言われて、すごくしっくりきた)

甘えたり、子どもっぽいわがままも、あまりしてなかったのかもしれない。大人のようなこともしないといけない場面もたくさんあって、私はとても頑張っていたと思う。そんな「日々」だったんですね。

そして、早く大人になりたくて、自立がしたくて、家を出たくて、高校を卒業して大阪に出てきました。チャレンジングな環境から物理的な距離ができて、水を得た魚のように、新しい「日々」が始まったんです。

一人ぐらしが始まって、いろんな手続きや、掃除や、自炊や、生活の全てが、どんなに面倒でも、自分が自分のためにやってる喜びでいっぱいだったんです。本当に生き返ったというか、ようやく自分として生まれ変わったような気持ちでした。

やっと1日が終わっても、また明日、変わり映えのない心配に埋め尽くされた1日がやってくるとしか思えなかった「日々」が、自分のことを考えて生きていける「日々」に変わった。それはそれは、一日一日がとても貴重に思えました。「一日」無事に終わることがやっとだった実家を離れたことは、必然だったと言えば必然だけど、自分で主張したことは間違いなく正解だったと思うんです。物理的な距離ができたことはとても大きな影響があったし、そこからの人生はとても楽しくて、刺激的で、生きることが楽しいと思えた。(間違いなく新たなステージに進んだけど、心にしみついたものはなかなか消えず、さらに次のステージに行く時のハードルの話はまた別の機会に)

一日一日が必死だったり、一日一日がとても愛しかったり、そんな私なので、今でも一日一日で胸がいっぱいだったりするのかなって思ったりするんです。今日一日を自分で作っていくってことがとても大事に感じるんです。なんとなく終わる、流れて過ぎていくなんて、嫌なんです。

それに一日一日の連続が人生だから。。。どんな一日も大事。愛しい。

先の予定を立てられない使えないやつかもしれないけれど、一日一日が大切過ぎる私はそれでいい。その日はその日しかないから、その日のベストを考えたいのです。

みんなはどうなんかな〜。

もちろん今日も素敵な一日になる予定。

自分と繋がって一日一日過ごしていくこと。そんな日々。

皆さんも素敵な一日を!

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ではまた!!

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