「逃」と「挑」

わたし

今日もこの星のどこかで生きている愛しい皆様

本日もお越しいただき、ありがとうございます。

梅雨いりですね、皆さん体調とか気分とかいかがですか?私は少しづつ調子は上がってきましたよ。

私は小さな頃に、たくさんのことを我慢して大人になってしまったので、今更ながら色々と自分を見つめ直したり癒したりとかしてるんですが、この数年とても大切にしていることがあります。それは自分の中を、ちゃんと見ていくこと。もうこれに尽きると思っているので、どんな時も、私今どう?どんな気持ち?と問いかけることをできるだけやりながら過ごしています。

で、昨日、旦那さんに言われたことを振り返りながら、自分はどうかってことを考えていた時に、ふと「挑戦」と言う言葉が降りてきたんですね。私って挑戦癖があるなあと思いました。私は、生まれてくる前に大体のこと(産まれる場所、家族や、自分に起きる大きな出来事、その人生での宿題など)を決めて生まれてくると言う説を信じているので、何が起きてもそれは自分が決めた、自分に必要なことだと思っています。それは他人から見て(自分から見ても)とても大変なことであっても、それを体験したい自分がいるんだと思うようになりました。そう思うと、私はきっと何かに挑戦したい思いが強いんだろうなあと思ったんですね。そういう自分をまた発見したんです。

できるかどうか、やってみたらどうなるか、できると思っている自分もいるし、どうなるかを確かめたい自分もいる。怖いもの見たさみたいなのもある。思ったようにならなくても、挑戦したくなってしまう人間なんだと思うんです。それがいいとか悪いとかじゃなくてね。

で、ふと、挑戦の「挑」と逃げるの「逃」って字、似てるなあって思いました。それで、一日色々と考えていたんですね。こんなことを1日も。。。で、同じことに気付いてる人も結構いることに気がついたりもしました。笑

で、1日考えて、思ったことは、挑むと逃げる、反対のようにも思えるけど、結局表裏一体なのかなと思ったんです。挑戦するってことは何かから逃げることでもあるのかなあと。もちろん、良いとか悪いとかではないし、結局何でもそうだけど、何でも陰陽があるわけで、何かが行き過ぎると言うのはバランスが取れていないと言うことになるのではないのかなあと。挑戦も行き過ぎは良くない。笑

そんなことを思い、昨日は少しスッキリした私でした。挑戦もいいけど、何事も全てはバランス。これからの人生は、できるだけ中庸を目指して生きていきたいと強く思っています。

皆さんも何かスッキリすることがありますように。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ではまた!

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