枕詞はいらない

わたし

今日もこの星のどこかで
生きている 愛しいあなたへ

今日も来てくれてありがとう!


自分を知れば知るほど、
現実を生きるのが楽になって、
そのうち、
自分が、現実に反応する側から、
自分で現実を作る側へ逆転する。

そんなことを実感しているから、
「自分を知る」ということ、
特に、自分の好き嫌いや価値観などを
自分でわかっていくことは最重要だと思う。
全てはそのための材料だ、とさえ思える。

そんな私が、日常でよく材料にしているのが、

「会話中にふと感じる“モヤっ”」

先日も、とても楽しく幸せな時間を過ごしている最中、
ある会話の時に、私はなぜか“モヤっ”とした。
私はそれを見逃さず、宿題として持ち帰った。


帰ってから一人になって、
ノートを開き、宿題を始めた。
あの時、なんでモヤった?何をどう感じた?

しばらくして、私が引っかかったポイントは、

“家族だから”という枕詞

だったと判明した。
それが嫌いだ。

“家族だから”
“女だから”“お母さんだから”“親だから”“子供だから”
という枕詞は、本人の意思を停止させる。

その〇〇に、間違いがないから、
有無を言わさぬ力があり、正しそうで、
一瞬にして〇〇という枠に閉じ込める。

私は、その枠が窮屈でたまらない。
息苦しくてたまらなかった過去がある。

家族だから我慢しないといけない、
お母さんだから嫌なこともやらないといけない、
子どもだから従わないといけない、
〇〇なんだからやるのが当然、、、

もっともらしい枠で閉じ込められると、
重い鉄の檻に入れられたような気分になる。

檻のような枠の中で、自分の意思を停止させて、
マネキンのように生きてきた時の傷が、
どうやら今回の会話の中で疼いたようだった。


“私がそう思うから”
これ以外の枕詞は、すべて私を萎えさせる。

行為が、仕事や誰かのためになることだとしても、
“私がやりたいからやる”
そうじゃないと、
愛や情熱を込めることが私はできない。

たとえそれが、やりたくないことだとしても、
“私ならこんなふうにする”という
少しでも楽しめる工夫をする。

いつでも、能動的でありたい、と思う。

“〇〇だから”という枕詞は、
その人の、自由意志と同時に
自分で決める力も停止させるスイッチになる。
そのことを覚えていようと思う。

私やあなたには、
いろんな肩書きや役割があると思うけど
それ以前にわたしは「わたし」
あなたは「あなた」であることを
忘れたくない。

私は、みんながそれぞれ自由である世界が好きだ。
私もあなたも自由であって欲しい。

そんな世界を想い、
今日も自分を癒し、自由であろうと思う♡

あなたも素敵なGWをね(*Ü*)ﻌﻌﻌ♥

今日も最後まで読んでくれて
ありがとう♡ありがとう♡ありがとう♡

卍易でぜひ自分を知りにきてね。

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