ぶっちぎりの友人

今日もこの星のどこかで生きている
愛しいみなさま。
本日もお越しいただきありがとうございます。

先日、
芸大時代の友人に10年以上ぶりに会ったんです。
それがすごくすごく良かった。

久々に会う友人は、
ハードな仕事で体を壊した過去があって
今は控えめにお仕事をしていたり、
いつの間にかパートナーと別居していたりしたけど、

変わらず、自分であることにぶっちぎってて、
正直、痺れた。
ほんのちょっと嫉妬すらした。
それより何より勇気をもらった。

髪の毛は蛍光ピンク色(仕事大丈夫?)
着たい服着て、
お金は無いけど服屋行こうと私を誘い、
その後美味しいパン屋でパンを買い、
コンビニでコーヒーを買ってみたい、
どうやって買うの?と聞いてきて、
私もよく知らないけど、
私の方がまだわかってるので、
私が二人分なんとか買って公園へ。
持病も不眠症も悲観せず、
読みたい本を読み、やりたいことをしてる
そんな日常について喋りながら
このパン美味しいなあ
暑いけど楽しいなあと言って、
蚊に噛まれ日焼けしながら時間を過ごした。

これよこれ。
と思える楽しい時間を過ごした。
〇〇でなくてはいけない、
一般的にはこうだ、
そんなものは一切無視の時間、
それで何があかんの?という波長。笑

私が芸大に行くことにした時、
動機はちょっと不純なものだった。
だけど、本当に間違ってなかったと思う。

肩書きがとか学歴がとか、そんなことじゃなくて。
何学科だったかとかそんなこともどうでもよくて。
その後何になったかとかも、どうでもよくて。
(よく聞かれるんだけど、本当にどうでもよくて。
行ってた人はわかると思う)

今でも繋がってる芸大仲間は数人しかいないけど、
一緒に過ごした時間は、
間違いなくこれ以上にない財産なんだよね。
今、バラバラだったとしても、
みんなきっと同じ宝物を持ってる。
そのうちの一人に
久々に会えた幸せが収まらなかったこの数日、
自分にとってこんなに大切で、
誇りに思ってるこの財産って、
一体なんだろうって考えていた。

それは、
表現することを肯定できたこと
なんだよね。きっと。

私がこの数年で確信したことは、
私は表現をしていないと死ぬってことだった。
自分が苦しい時は自分を表現できてない時。
表現しないで死にかけた。
私は表現してないと死ぬ。

思えば、芸大にいた時は、
表現しないなんてあり得ないって人ばかりだったし、
それが誰かを気にして評価のためとかじゃないのね。
競い合うとかでもない。
やりたいからやる。してみたいからする。それだけ。
表現する生き方が自然に、自由に、無限にできる、
そんな世界だったんだよね。

で、こんな話をすると、
やっぱりアーティストだねって言う人がいるんだけど、
違うのよ。
私は実は芸大に行って、アーティストって言葉が
あまり好きじゃなくなった。
特別なこと、みたいなのがちょっと引っかかる。

表現って、別に作品作るってことじゃない。
特別なことじゃない。特別にしなくていい。
表現は、ただ、見えないものを形にする、表す、
ってことだと思ってる。

私が表現していないとしんどいのは、
何も私がアーティストだからじゃなくて、
自分でありたいだけ。
自分の内側を表現していたいだけ。
自分が気持ちよくいるために。
で、きっとそれはみんなそうじゃないかと
思っている。(違うって人がいたらごめん)

そのためには自分を知ることが必要だと思うから、
卍易もそれを意識して使っている。

表現するって、
自分の思いとかイメージとかを形にするってことだから、
思ってること言うとか、やりたいことするとか、
そういうこと。

好きな人に好きって言うとか、
ありがとうと思えばそれを伝えるとか、
嫌なことは嫌だと言うとか、
自分がいいなと思ったもの選ぶとか、
我慢しないとか、
そういうこと。

今思うと、
表現することの自由度がめちゃくちゃ高かった、
なんなら、なんでしないの?みたいな、
そんな環境にいられたことが
本当にすごくラッキーだったし、
ルーツになったよね。
先日は友人がそれを思い出させてくれた。

私も、そんな世界に行きたくて、
行ったんだと思うよ、芸大に。
そんな自分に、一緒に過ごしてくれたみんなに、
私を磨いてくれた全部に、感謝しかないな。

人は、みんな表現者だよ。
アーティストとか言わなくても。
言いたかったら誰でも言っていいし。
生きてる毎日が作品みたいなものかもよ。

感じてることを表現することが、
生きることだよ。
やっぱりそう思うな!

今日も、生きていこ!!

最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

ではまた( ◠‿◠ )







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